かきたまじる

駅メモ・リヴリー・ノベルゲームが好き

スタートライン

「次はプログラム12番、徒競走です。競技に参加する生徒は入場門付近に集まってください」

 放送部のアナウンスが聞こえた。姉はビデオカメラを構えた。自分の娘が出る競技らしい。

「ほら、あそこ!美弥がいるよ」

姉は自分の娘を見つけてはしゃいでいる。僕はそちらを見た。姪が緊張した面持ちでしゃがんでいるのが見えた。姪はどうやらアンカーらしかった。

僕は、姉の娘の出る運動会に姉とともに見ることになった。どうせ大学の試験勉強も、ろくに進んでいないのでしょう、気分転換に来なさい、というのが姉の言い分だった。ちょうど第一走者が全員スタートラインに並んだところだ。スタートを告げる合図であるピストルが、天高く上がった。パン、と乾いた音がした。ランナーの足が一斉に動き出した。白い線できれいに引かれたトラックの線が、一生懸命走るランナーが弾き出した砂に交じって白茶色になる。

 スタートラインに第二走者が並び始める。スタートラインという言葉で、僕はふと昔のことを思い出した。

 

 「私はまだスタートラインに立ったばかりなの」

そう、認定魔女を目指す魔法使いの女の子は僕に言った。

 

それは今から一二年も前の話になる。僕は姉の膝に座って絵本を読んでもらっていた。絵本の内容は、魔女が主人公で、かぼちゃみたいな使い魔と、不思議な丸い形をした使い魔が冒険する話だった。読み聞かせの途中でそれは起こった。なんと、物語の中のキャラクターであるはずの魔女と使い魔が、絵本の中から出てきたのだ! これには僕も姉もびっくりしてしまった。

「で、できた!」

女の子は自分でも驚いたようだった。

「できた……って、何ができたの?」

姉はおそるおそる彼女に尋ねた。

「あっ、はじめまして。私はイロ、というの。魔法使いの試験をこないだ通って、魔法使いとしていま仕事しているの。さっそくだけど、少し話をさせてもらえるかな」

イロは先端がくるりと曲がった金髪をいじりながら話した。『科学の力で便利な生活を送る人間』について調査を依頼されたというイロに、姉がいろいろと驚きながら話をした。その過程で、イロの住む世界のことの話や、イロ自身の立場の話も聞くことができた。

「魔女はね」と、彼女は言った。「あなたたちが思っているような不思議なひとたちではないし、天才でもないのよ。もちろん、天才って呼ばれる素敵な魔女もいるわ」

「あなたは?」

「私は、まだスタートラインに立ったばかりなの」

どういうことだろう、と僕と姉は首を傾げた。

「私は、魔法使いの試験を通って、今は魔法使いの仕事をしているわ。でも、それだけなの。今は、私には知識しかないの」

「知識さえあれば、いいんじゃないの?魔法って、呪文とか、唱えるものなんでしょう」

姉が質問した。

「そういうのは、一握りだけなの。ほとんどは、経験していかないと分からない微妙なさじ加減があって、現場に出てたくさん魔法使いとしての経験を積まなきゃいけないの」

途中からだんだん、話を聞くためにやってきたはずのイロが、話す側になりつつあった。

「私、魔法使いの試験がゴールだと思っていたの。でも、違うの。試験に合格するのはただ、スタートラインに立っただけだった。ゴールだと思ってたのがスタートラインだった」

イロはうつむいた。

姉も僕もなんと返答してよいものか分からなかった。僕はイロの言う意味がいまいち分からなかった。シケン?スタートライン?すべてがピンときていなかった。僕たちの困惑をよそに、イロは話し続けた。

「でも、こないだ目指すべきゴールを見つけたのよ!」

イロの顔はそれまで暗かったのだが、花が咲いたように明るくなった。

「認定魔女試験よ。これに受かれば、私は晴れて一人前の魔女なのよ」

「そっか。よかったね」

「それで今、あなたたちのところに来て話をしているの。認定魔女になるための勉強。今のはね、空間転移魔法」

イロはそれまでとは打って変わって明るい表情をしている。彼女はひとしきりお喋りしたあと、満足したように去っていった。

 

イロという魔法使いのことなど、誰に話しても信じてくれなかったので、彼女のことは、姉と僕の秘密になった。姉は必死にビデオカメラを回している。どうも次が、姪の番らしかった。

イロの言う、『ゴールだと思っていたものが、スタートラインになってしまった』というのがあの時は理解できなかった。

今はなんとなく分かるような気がした。僕も、高校に入学することがゴールだと思って毎日勉強をがんばってきた。ところが、高校に入学すると、すぐに大学を目指して勉強しろと言われて面喰った。高校なんてスタートラインに過ぎなかったのだ。ただ毎日を流されるかのように生きているからこんなことになっているのかもしれない、と僕は思った。もしかしたら大学も、スタートラインに過ぎないのかもしれない。

 

姪がスタートラインに立つ。

僕のスタートラインはいったいどこなのだろう。

姪がバトンをもらって、ゴールへと駆け出した。

僕のゴールはいったいどこなのだろう。

 

イロは今、認定魔女になれたのだろうか。スタートラインに立ってようやくゴールを見つけて、駆け出し始めた、イロの明るい顔が脳裏に浮かんだ。僕も早く、ゴールを見つけなくては、と思った。いや、その前に僕はまだ、スタートラインに立つことすらできていないのかもしれない。姪がゴールテープを切った。姉や周りの家族がいっせいにおめでとうと叫ぶ中、僕の頭の中はスタートラインに立てない焦りでいっぱいだった。不意に肩をたたかれた。姉さんだろうか、と僕はゆっくりと振り向いた。

姉さん……では、なかった。あのときの魔女がそこにいた。魔女の、柔らかそうな白いにほほに金髪が映えていた。まわりからしてみれば、とても浮いているのに、誰も彼女なんか気にしていない。そんなことより、眼前の徒競走に夢中だ。

「そのことに気付けたのなら、あなたもようやく、スタートラインに立てたということなのよ」

と、彼女は言った。まるで僕の考えていたことをのぞき見でもしていたかのような物言いだった。僕は、イロ、と彼女の名前をつぶやいた。イロの瞳が、にっこりと笑う。わたしをおぼえててくれていたのね、嬉しい。と。

「次は、ゴールを見つけて、そこへ行かなきゃね。あの子みたいに」

イロの指先が、ゆっくりと、出番を終えて退場していく姪たちを差した。僕の視線も、意識も、そちらへゆっくりと傾く。

「こら!そこ、どいてよ!ビデオカメラに写りこんじゃう!」

姉の怒声で我に返った。姉は入場から退場まで余すところなく、撮影をするようだ。魔女はもういなくなっていた。認定魔女に、彼女はなれたのだろうか?その疑問は聞けずじまいに終わったが、僕の心にあった焦りは消えていて、代わりに安堵する気持ちが残っていた。